面と向かって話す=×、ツイート&ブログ=〇、自身で自発的に声を出す=△。
なんか妙に人の話を聞きたいとか、自分の言葉を放流したいとかの欲求が出てきて、なんかよくわからない事になってきたので、この心境を吐き出してみて整理をつけてみようという試みを行ってみる。
私めは、元々を辿ればあがり症である事は間違いはないのであります。
余りにも酷いあがり症のおかげで小学の頃には、授業中に答える様に当てられ、
そのままマゴマゴしてる内に授業の時間が終わってしまい、職員室に呼び出されては説教を食らう、なんて事が複数回あった事を記憶している。
そしてそれは中学の終わり頃は、高校の入試に挑まんとする時期にまで、
治る様な予兆もまるで見えないままでありましたる。
中学の終わり頃には入試の練習という事で、半ば嫌々でもこれをやらねば、先行きに影響やらなんやらという事はさすがに察していたが為、死に物狂いで緊張に腹痛と戦い、面接中くらいの緊張でならある程度動けるようにはなりました。
だがしかし、それでもあがり症に変わりはなく、人前にでる、大勢の前で何かをやる、なんて事にでもなればやはり動けなくなるし、体調も悪くなるのが普通の事であるのは、今現在でも大して変わっていない事でありまする。
そんな自身の状況を分かっておきながら、何故上記にて話を聞いてみたいだの、
自身の言葉を放流してみたいだの考えられるのかなんて事を考えてみようものならば、やっぱり直接的でない交流の方法が、…Twitter や ブログ といったネットワーク上のツールのおかげとしか言いようがないのであります。
これらのツール、よくも考えてみると随分とあがり症が不安に感じて行動がとれなくなる要素を、かなり排除してくれている感がありまする。
まず、その場で急に言葉を紡いで吐き出すように、とされていない所。
大体私は急にそうするように言われるともすると、言葉が頭の中に浮かばない、言葉が浮かばないから周りを見て何を言えばいいか判らないまま思考停止。
なんて事がよくあった、…というより大体そこから別の不安を併発してアウトだった。
ただSNSの類ならいわゆる発言を出すまで、文字を打ち出すまでのラグを嫌でも取らなければ発言はできない、のが急に言葉を紡ぎだせない身からすると大変に助かる。
言葉を出す際の、可笑しな事を言ってしまったりしないか、間違った事を言ってしまったりしないか、という不安を文字を打ち出しながら考えて修正が利くのは、
言葉を使う時の不安の払しょくには、大きく貢献してくれる要素だと思いまする。
まあそれでもおかしいこといってるときあるんですが。
つぎ、大勢の視線の圧に精神が耐えられない事がない。(現実だと一人でも無理!)
私は上記とこれで思考停止、まごついて動けなくなるのが定石。
大体こちらで脳内ブルースクリーン状態から、背筋を瞬間冷却のツーコンボ。
とまあ、SNSの類だとそもそも視線にさらされる事がないので、のびのびと言葉を紡ぐ事に神経を置けるので、助かりまくりんぐでありまする。
私個人的には、上記よりはこちらの利点の方が助かりまする。
つぎ、発言を後から見返せる。(これは一長一短の側面強め。)
先に確認して発言できればいい、とはいえそれでも可笑しな事を言ってしまう事もある所なので、後から確認できるという安心感もあるのが良い所かと。
ただ、ネット上だと取り返しのつかない発言なるものもありつつ、なおかつそれがネットの海に漂流してしまう事は留意の必要があるのが難点でありまする。
それでも、後から確認できれば訂正や謝罪がまだできる点で安心は可能かと。
========================
とまあSNS使いだしてから、自身が話聞きたいとか吐き出したい。
なんて心が出てきたであろう要因はこんな感じかな、と。
ただし、SNSだけ使う分には確かに上記の通りの事が言えるかしれないけども、
私め、Youtube にまで手を出して、自身で3Dアニメーションを自作。
あまつさえ自身でそれにアフレコまでしてしまう始末をどう説明すればよいのか?
www.youtube.com と隙あらば宣伝。
私は確かに上がり症でありつつ、なおかつ世間的に目立つ行動なんて全くとった事すらないような人生を送ってきたというのに、なぜ30超えて今更こんな事してるのやら。
ある意味、ネット上に匿名的に活動できる形態。
SNSの類でなら、自身の姿かたちも声も上げなくていいものでありますが、
隠せたであろう声を、何故かそれをやるにつけてはネット上に露出して今現在も継続中でありまする。…昔の自分ではそれだって厭だったはずなのに。
人間生きてれば、案外やった事ない事への耐性も案外ついてくるのかもしれない。
自身の成長なのか、ただ鈍くなっただけなのか、順応できるようになったのか?
と、自身の変化に自身で驚くばかりでありまする。
後、ついでの話しながら。
人の話を聞いてみたい。
というこれ、自分なりにどうにか形にできないかしらん。と考え中でありまする。
というより、そもそもどのような御仁が私に話さんとするのか?
という疑問もありながらも、
まず形を作ってそれを広める形で話に来てもらうのが良いのか?
自分の方から話を聞いてみたい御仁にアプローチしてみるのが良いか?
そもそも、どのような事を聞けばよろしいのやら?
これはなかなか自身の中でも考える必要性のありそうな事。
とりあえず今の所は、
Twitter の個人名の所に「リツイDMの練習台引き受け〼」などと打っておいて、
それっぽい意欲がある所は見せている、……つもりではある。
ただそれでも乗ってくれた方は、2~3回くらい(1か月くらいの間で)
あまり効果はないようであるし、なんか別の方法の模索も必要かしらん。
なにかしら別のツールが必要かしらん?
ともすると自身でそういう事やるなら、どこまでやっても自身は平気か?
と考えた時には、私は声の露出はしているものだから声出しはオーケー。
ただ姿を出すのはやめておきたい、さすがに恥ずかしいとかいう次元の話どころか、個人情報がとか、特定が怖いとかの話になってきてしまうのでこれはNG。
と、考えてみれば。
今の世の中にはアバター作っておいて云々の活用に利用する文化になりつつあるものが丁度あって、それを利用するのも手であろうか?
そういえば Youtube にライブ配信で生で話しつつ、なんてのもあるんだし。
なんかそういうのも考えておいた方が、…この際は楽しくなるだろうか?考えとく。
話す事、発信する事に関して吐き出せるのはこんな感じかしらん。
どうにも文字打ってると、次々考えが浮かんだりするものだから取り止めがなくなってきていけない。自重した方が良いかしれない。
先の日も Twitter でその手の事をやらかした感があるので。
今回はこれくらいに、もしこの記事を読んだ方で、
”話していいよ”という方おりましたら、気軽にコメントでも Twitter でも打ち込んでいってくれたらうれしい限りでありまする。
ただ私は話が長いので、そこだけ注意です。
では今回はこれくらいで。
499
For bad luck people !!